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看護婦生活たった3年!? ナイチンゲールが「クリミアの天使」になったワケ。YUITIOBLOG

背景

ヒューマンヒストリーを書き始めて4人目です。今日は「フローレンス・ナイチンゲール」という人物について纏めます。ナイチンゲールと言われるとどんなイメージがあるでしょうか。看護婦の鏡としてのナイチンゲールが印象にあるかと思いますが、実は、看護婦生活は、たったの3年しか経験していないんです。それなのに、歴史に名を残す偉人として今でも語り継がれています。そんな彼女の人生について考えたいと思います。

 

生い立ち

ナイチンゲールは、1820年5月12日、ウィリアム(父)とフランシス(母)の間に生まれました。新婚旅行中にイタリアのフィレンツェで生まれたので、フィレンツェの英語読みで「フローレンス」と名付けられました。

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ナイチンゲールは、上流階級の生まれで17歳の時には社交界にデビューします。若くして人々の前に立つ華やかな生活とは裏腹に、心の中では喜べていなかったと言います。そんな中、ある日、負傷した犬に出会います。その犬の手当てをしていた時に、不思議な喜びに駆られたのです。社交界とは全く違う心から湧き上がる喜びだったそうです。

 

その頃に、後のキーパーソンである、シドニー・ハーバート卿と出会います。ナイチンゲールの本当の心を知ったハーバート卿は、ナイチンゲール人間性に惹かれるのです。

 

両親に、「カイザースヴェルト学園(ドイツ)で看護婦になりたい」と伝えると両親は酷く怒りました。それもそのはず。当時の看護婦という仕事は、チップを稼ぎ、時には売春婦紛いの行為をするいかがわしい女性の仕事として認識されていたからです。自分が本気でやりたい仕事が見つかったにも拘らず、両親との価値観の違いで悩み続けます。

 

カイザースヴェルトからクリミアへ

あまりにも悩み続けるナイチンゲールに両親が気晴らしに旅行へと向かいます。姉の精神病を看護するという口実で、念願のカイザースヴェルトへ滞在することになるのです。そこでは、社交界では見られない女性像がそこにはありました。一生を捧げる仕事が見つかったのです。この時、ナイチンゲールは33歳。

 

そして、最大の転機が訪れます。1854年に勃発したクリミア戦争です。

トルコ・イギリス・フランス vs ロシア 

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クリミアにいる兵士を見殺しできない。戦場の病院へ行かないと行けないと思い始めた頃、偶然にも、戦時大臣だったハーバート卿から連絡があります。戦場の病院へ行ってくれないかという依頼だったのです。まさに、「啐啄(そったく)」です。

啐啄とは、卵にいる鶏の赤ちゃんが内から殻を破ろうとする時に、親も外からつついてあげること。早すぎても未熟児になるし、遅くても良くないのでまさに然るべきタイミングであるという表現です。

加えて、ヴィクトリア女王からの正式に、戦場であるスクタリに派遣要請が下ります。それまで、看護婦の仕事に猛反対だった家族の見方もこれで変わったそうです。

 

クリミア戦争の死亡率が73%から5.2%に

ナイチンゲールはシスター24名と職業看護14名の合計38名を連れてスクタリへ向かいました。そこで目の当たりにしたのは、兵士は死傷で死んでいるのではなく、防ぐことができる病気で死んでいる事実でした。人間がモノのように扱われる事実を目の当たりにしましたが、女性であるということから現地の長官に看護活動を拒絶されます。 

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看護をしたいけれど、してしまうと命令違反となって帰国させられる。そんな時に、ハーバート卿に手紙を送ります。陸軍大臣であったハーバート卿がヴィクトリア女王を説得。それが実り、看護活動の許可が出ます。

 

これによって、スクタリでの兵士死亡率が激減します。

ナイチンゲール到着前  73%

ナイチンゲール到着後  5.2%

 

今では当たり前となっていますが当時は画期的。

  1. 死亡率を激減させた要因は以下の通りです。
  2. 部屋の窓を開けて喚起する
  3. 日光を室内に取り込む
  4. ネズミ・害虫の駆除
  5. シーツと包帯の取り替え
  6. 洗濯・乾燥の場を設ける
  7. 調理・配膳
  8. トイレの清掃
  9. 兵士に国へ帰るという希望を持たせる

中でも、9つ目の希望を与えるというものが、兵士には何よりの治療になったそうです。当時の兵士はこう言いました。

ナイチンゲールが通って行くだけで慰められる。私たちはそれだけで満足でした。

 クリミアの天使と呼ばれた所以がここにあります。医療の中でも、治療(Cure)と看護(Care)は全くの別物であると言いました。

 

輝かしい活躍と裏腹に…

兵士の看護のために奔走します。眠る時間が4時間という超ハードスケジュールでも次々に負傷した兵士が送り込まれてきます。そして、ナイチンゲールは決意します。この病院ではなく、1人でも多くの人を助けるために戦場へ向かうというのです。

 

当時、街ではナイチンゲール看護団に眩いばかりの賞賛を送っていました。ナイチンゲールグッツがたくさんできたほどです。この時にナイチンゲールはこう言いました。

この仕事に対する度外れの喝采が、我々の中に呼び起こした虚栄心と軽挙妄動とは、この事業に害毒を流し込みました。少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力。これこそが、1つの事業がしっかりと根を下ろし、成長して行くための基盤なのです。

 看護婦の中でも勘違いする人が出てきたのでしょうか。ナイチンゲールは常に地に足をつけて活動していました。しかし、本人がクリミア熱で倒れてしまいます。そして、治った時には戦争が終わっていました。そして、こう言いました。

私は地獄を見た。

私はクリミアを忘れない。

 

そして、追い打ちをかけるかのように慕っていたハーバード卿が死去します。失意の中、励ましたのは他でもない兵士だったのです。ナイチンゲールが兵士を忘れなかったかのように、兵士はナイチンゲールを忘れていなかったのです。そして、ナイチンゲール基金も設立されました。

 

ナイチンゲールの業績

  • 1851年  「カイザースヴェルド学園によせて」を出版
  • 1853年    淑女病院の総長
  • 1854年    クリミア戦争勃発。女性による兵舎病院での看護改善。
  • 1856年    看護婦としての役割を終える
  • 1858年    「英国陸軍の保護」を出版
  • 1859年    「看護の覚書」を出版
  • 1860年    ナイチンゲール看護訓練学校開講
  • 1862年    インド衛星問題に取り組む
  • 1863年    「病院覚書き」を出版
  • 1867年    救貧院病院の看護改善「救貧院病院における看護」を出版
  • 1871年    「産院覚書き」を出版
  • 1882年    「看護婦の訓練と病人の看護」を発表
  • 1892年    看護婦登録制度の意見書
  • 1893年    「病人と看護と健康を守る看護」を出版
  • 1894年    「 町や村での健康教育」を出版

他にも、政府に1万通を超える提案書を出したと言われています。

ナイチンゲールが発案したものはこんな感じ。

白い壁・ナースコール・カーテン・清潔な床・ナースキャップ・エレベーター・風通しの良い窓

 

ナイチンゲールの最期

1910年8月13日 ナイチンゲール 永眠 90歳。

棺を担いだのはクリミア兵士でした。

看護婦生活はたったの3年でしたが、病気になってもできることがあると証明し続けました。看護婦としての経験と、自身の患者としての目線を合わせて様々な提案をし続けました。

 

最後にこう言っています。

私の名前が人々の記憶から消えても、私の仕事=看護は永遠となることを祈ります。神様どうかクリミアの旧友を安らかに昇天させてくださいますように。

 

まとめ

内なる声を聞き、自分のやりたいことに全てを捧げる素直さは人の心を動かし続けました。また、ナイチンゲールは、医療=治療+看護であると言っています。先日、僕が感銘を受けた奈良シニア大学での講義でも、先生は1人の患者を見ることと、現場では防ぐことのできない葛藤に悩んだ言っていました。

www.yuitotsubakino.jp

 

自分の使命は何なのか。

自分の使命を全うするために、

あえてタイミングを待つ決断をしたナイチンゲール

全てはそこから始まったのかもしれません。

慌てずに待つ。準備すること。

 

 

おわり

 

是非、読者になってください↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

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