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夏目漱石の人生は猫に救われた!? 吾輩が猫である理由。

 

背景

今日のテーマは夏目漱石についてです。先日、芥川龍之介の記事を書きました。無名だった芥川龍之介に勇気を与え、作家としての道を歩ませることになる心の拠り所として支持した人物が、他でもない夏目漱石です。

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僕が知る夏目漱石は、1,000円札。我輩は猫である。くらいですね。今日は、その夏目漱石の人生を振り返ることで、芥川龍之介を支持した背景や文豪としての心意気を探って見たいと思います。

 

漱石の生い立ち

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*1

 

1867年2月9日に現在の新宿区で生誕。父は塩原昌之助、母塩原ヤスの間で育ち、塩原金之助として成長しました。しかし、7歳の頃に父の浮気が発覚し、10歳の頃に両親が離婚。早稲田に住む祖父母の夏目家に行きます。しかし、その時にある事実が発覚します。

 

もともと、両親だと思っていた塩原家ですが、実の両親は、夏目直克(父)、夏目千枝(母)だったのです。夏目家の恥かきっ子として、夏目家から塩原家に養子として迎えられていたのです。誕生後すぐに養子として引き渡された事実に対して、金之助はひどく落ち込みます。加えて、11歳の時に実の母であった千枝が死去してしまいました。自分を認めてもらうために勉学に励み、非常に優秀だったと言われています。

 

芥川龍之介の生い立ちも、夏目漱石(当時、金之助)と同様に、自分を認めてもらいたい欲求と、自分が没頭できる唯一の楽しみとして勉強をすることでエリートへの道を歩み始めるんですね。似ています。

 

しかし、漱石(当時、金之助)の場合はエリートすぎるが故に仲間から孤立し、多大なストレスによる腹膜炎が原因で、エリートだったにも拘らず落第してしまいます。それでも、文学の分野で西洋人を唸らせたいと必死に唯一の自分の拠り所である勉学に励みます。

 

教師として活躍

22歳の頃、自分自身を漱石と名乗るようになります。きっかけは、正岡子規の「七草集」に対する批評を「漱石」という筆名(現在でいうところのペンネーム)で書いたこと。因みに、漱石とは、頑固者の意味です。この頃から正岡子規とは交友が深くなって行きます。学生時代から自分の意思を貫く、頑固な金之助にはピッタリなペンネームだったと言えるでしょう。

 

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エリートとして高給取りの代名詞である英語教師として活動するようになります。しかし、エリートすぎた漱石には、生徒から「難しすぎて授業についていけない」と批判が相次ぎ、学生の不満はボイコットへと移ります。

 

その後、東京での高等師範を辞め、松山へ移ります。しかし、松山の人々が大歓迎するも、ここでも都会のエリート意識があったのか、松山の学生に溶け込まず、ますます孤独を感じるようになります。

こんな文章を書き綴り、松山には二度と戻らないと批判します。

野暮なところだ、見るところでは大森(東京の外れ)くらいな漁村だ。

人を馬鹿にしてらぁ。こんなところに我慢ができるものか。(夏目漱石

 勉強はできても、人間関係の構築が苦手だったのでしょう。

  • 家庭に馴染めない
  • 師範(教師)生活も上手くいかない
  • 結核の病気になったこと

その後に、熊本へ転任します。ここで、転機が訪れます。1つ目は、鏡子と結婚して、筆子が生まれたこと、そして、2つ目は、第1回の国費留学生としてロンドン行きが認められたことです。

 

念願のロンドンで待ち受けていた現実

日本のエリートとして、勉学の成果を認められた虚栄心と、少年時代に芽生えた「西洋人を唸らせる」という野心を胸に抱き、ロンドンへ国費留学します。しかし、当時のロンドンは日本の物価の約10倍。まして、カルチャーショックにもなり、妻、鏡子に宛てた手紙も返ってこない。益々、精神を苛立たせました。

当時、こんな文章を書いています。

鉄道の音、馬車の煙、脳病などある人は1日もロンドンには住みたがるべきかと思われ候

唯一の自分の自信でもあり、武器であった学問が全く通じない現実。そして、それらが複雑に絡み合い、自身の精神にも支障をきたすようになりました。まして、追い打ちをかけるかのように、文部省から帰国の命令が下ります。何の成果を得られることなく強制帰国という屈辱を味わうことになります。極度の人間不信と神経衰弱に陥るのです。

 

ロンドンにいる時に唯一の心の拠り所になったのが書物です。ロンドン滞在中に、500~600冊の本を読んだそうです。そこで、自分本位という考え方を知りました。精神的に弱っていた漱石を何とか支えていたものは、自分本位の精神だったのです。本人もこう書き綴っています。

私は自己本位という言葉を自分の手に握ってから、大変強くなりました。

 

開花させた文豪としての才能は猫がきっかけ?

漱石がロンドンから帰ると、極度の精神病だった漱石は家庭を荒らします。36歳の時です。しかし、それでも漱石は作家として書小説を書き続けます。そんな中、突然、黒い猫が入ってきます。外に追いやっても、また部屋に入ってきます。「黒猫は福猫」ということわざがある通り、猫の目を借りて小説を書き始めたら、神経衰弱が治ります。これを機に、一気に執筆に励み、37歳の時に、誰もが知っている「我輩は猫である」を出版します。これで本格的に小説家としての人生をスタートするのです。

 

その時期から出版した小説のタイトルは以下の通り。

  • 我輩は犬である
  • 我輩は馬である
  • 我輩は共同水道である
  • 我輩はフィルムである
  • 我輩はムッソリーニである
  • 漱石の猫は我輩である

 ユニークなタイトルの小説が沢山出版されているなんて知らなかった。

 

漱石にとっての3作目である「草枕」は、出版3日目で完売する人気を集めます。そこで、有名なこの一節が書かれています。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

この作品がある転機をもたらします。朝日新聞社からの招聘を受けるのです。しかし、当時は、新聞社で働くといういのは低く見られていました。まして、名誉ある教師から新聞社で働くとなると尚更です。しかし、漱石は入社を決意します。そこで、虞美人草の連載を始めることになるのです。

 

度重なる生涯の病気まとめ

  • 19歳  腹膜炎・トラホーム
  • 27歳  神経衰弱・肺結核
  • 34歳  神経衰弱
  • 35歳  強度の神経衰弱
  • 36歳  神経衰弱
  • 40歳  胃病
  • 43歳  胃潰瘍(嘔吐で危篤)
  • 44歳  胃潰瘍再発
  • 45歳  神経衰弱再発
  • 47歳  胃潰瘍再発
  • 48歳  胃潰瘍再発
  • 49歳  リウマチ・糖尿病・胃潰瘍再発

 

本当の人生の転機

明治36年6月(43歳の時)に胃潰瘍で約500ccもの血を吐きます。危篤状態に陥って目を覚ました時、家族の皆が看病してくれていたのです。これまで、家庭の中でも厳しかった漱石ですが、家族の大切さに気づきます。こんな文章を書き綴っています。

世の人は皆自分より親切なものだと思った。住みにくいと感じた世界に忽ち暖かな風が吹いた。余は病に生き返るとともに、心に生き返った。

 これまでに、笑顔を一切見せなかった漱石ですが、この時に初めて笑顔の写真が納められています。

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父としての優しさが備わったのです。死に直面した時に、生きることの大切さがわかったのではないでしょうか。こんな言葉を言っています。

 

則天去私(私を絶って天に従う)

 

これまで、ロンドン留学の際に、「自己本位」と言っていた漱石が、「則天去私」と言ったのは何故か。少しわかるような気がします。

 

小説「心」では、こう書いています。

 

私は寂しい人間です。あなたも寂しい人間ではないですか。

そして、「明暗」という作品の連載を始めます。連載188回目の時に、1916年12月6日。漱石は死去します。 愛とエゴイズムと戦った漱石はここに人生のピリオドを打ちました。エゴイズムの鎧は他人を傷つけ、自分の精神と身体をも傷つけたのです。

 

まとめ

若い時には自分本意だった漱石が、最期には則天去私と考えるまでの苦労。

何か感じるものがありました。自分が大切にしたいものは何なのか。

考えるきっかけとなりました。

それにしても、部屋に入ってきた「猫」は何だったのか。

不思議な導きのようなものがあったのでしょうか。

 

おわり

 

 

 

 

前回の記事はこちらから。

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