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平尾誠二さん「感謝の集い」での山中伸弥さんの弔辞全文

今日は、「友情(著:山中伸弥さん)【講談社】」という本をまとめたいと思います。この本を読み終わって、「男の友情っていいな!!」と思いました。読んで涙が出そうになった数少ない本の1つです。

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二人の出会い 

2008年に、山中伸弥さんは、神戸大学医学部の先輩・後輩と3人でお食事をしていました。高校時代から平尾誠二さんの大ファンだった山中さん。平尾さんとの知り合いだった先輩が、「そんなら平尾さんに電話するわ」と言って電話をしたそうです。

その時の情景を本文からの引用で紹介します。

初めて平尾誠二さんとお話をしたのは、2008年だったと思います。ある晩、神戸大学医学部の先輩と後輩、僕の三人で食事をしていました。(中略)僕は高校時代から平尾さんの大ファンです。「本当に素晴らしい選手や」と憧れていました。そんな話をしたところ、ちょっとお酒が入っていたこともあり、先輩が「そんなら平尾さんに電話するわ」と言って、その場で平尾さんに電話をかけました。先輩はしばらく平尾さんと話をすると、「今、隣に山中先生がいてますねん。代わりますわ」

と、僕に携帯電話を渡してくれました。その時は挨拶程度の会話でしたが、平尾さんは、「山中先生のことは前から存じ上げてます。ぜひ、お会いできたらいいですね」と、おっしゃいました。社交辞令だったのかもしれませんが、「とても紳士的な方だな」という印象を受けました。

週刊現代の対談で初顔合わせ 

忙しい山中さんは、ノーベル賞受賞前だったので取材の依頼を沢山受けていたものの、全て断っていました。その中に、平尾誠二さんからの依頼が紛れていたのです。そこから、2010年9月30日に「週刊現代」で初めて対談が実現します。

その時の情景を本文からの引用で紹介します。

週刊現代」から平尾さんとの対談の依頼がありました。

京都大学iPS細胞研究所には国際広報室という部署があり、取材や対談などいろいろなリクエストを全部チェックしています。

まだノーベル賞をいただく前で、毎年、発表の前の時期になると、ものすごい数の取材依頼をいただいており、基本的にはすべてお断りしていたのですが、二週間に一度ぐらいの割合で、どういう依頼があったかを僕に教えてくれていました。週刊現代」の依頼があった時も、「こういうお話がありましたがお断りします、この依頼もお断りします、これもお断りします……」という報告を、僕は「はい、はい、はい」と聞いていました。その流れのなかにさりげなく、ラグビー平尾誠二さんとの対談もお断りします」という言葉が出てきたのです。僕は慌ててストップをかけました。「えーっ! ちょっと待って、ちょっと待って。今、なんて言うたの?」これでこの話は復活。2010年9月30日に京都で対談をすることになりました。

「その通りの人が、そのまま出てきたな」と、僕は思いました。テレビなどで憧れていた人でも、実際に会ったら想像していたイメージと違ってガッカリした、という話はよくあります。僕もそう思われているかもしれません。でも、平尾さんは想像していたイメージそのまま、いや、それ以上に素敵な方でした。彫りが深くて男前なだけでなく、とても心の優しい人なのです。話の端々に、いろいろな人に対する思いやりが滲みます。それが慇懃無礼な感じではまったくなく、むしろ口では結構辛辣なことも言うのですが、それでも優しさが自然に伝わってくるようでした。

対談後、編集者もまじえて京都で食事をしました。いちばん憧れていた人にお会いできた嬉しさから、いつもよりたくさんお酒を呑んでしまいました。そこから、僕たちの付き合いが始まったのです。

 癌の宣告

2015年9月12日に、山中さんと、平尾さん、友人を交えてお食事をしました。その後に、「血を吐いた。癌と宣告された。」と電話がかかってきます。

その前日、彼は友人たちとゴルフをし、夜になって僕や別の友人と一緒に食事をしました。その時は特に痩せておらず、様子も普段と変わったところはありませんでした。ところが、二日後に、「先生、実は先生と別れたあの晩に血を吐いて。どうやら癌みたいです」と、車で移動中だった僕のところに彼から電話がかかってきたのです。

(中略)そこで担当の医師に話を聞き、CT画像を見せてもらったのです。肝臓の中にできる胆管癌(肝内胆管癌)で、癌はびっくりするほど肝臓の中に広がっており、大きな衝撃を受けました。その数日前には、いつもと同じように一緒に呑んでいたのです。まさに青天の霹靂でした。吐血は、食道静脈瘤の破裂によるものでした。

 闘病生活

主治医の先生と面談し、山中さんの勧めで、世界でも前例のない治療に挑むことになりました。

平尾誠二の闘病生活は、究極の試合でした。ワンプレー、ワンプレーが結果を左右する極限状態の試合を、彼と一緒に闘っているような感じでした。もちろん、彼が中心で闘っていたわけですが、少しでも僕にできることがあるのならどんなことでもしてあげたい、という思いでいっぱいでした。(中略)僕に弱音を吐くこともなく、「絶対に闘うんだ」と常に前向きでした。周囲の人に気配りし、ジョークもたくさん言いました。もし自分なら、とてもできなかっただろうと思います。

平尾誠二は最期まで紳士でした。平尾誠二のままでした。平尾誠二さんと僕との付き合いは、出会いからわずか六年間で終わってしまいました。せっかく知り合えたのに、あっという間でした。けれど、四十代半ばを過ぎてから男同士の友情を育むというのは、滅多にないことです。なんの利害関係もなく、一緒にいて心から楽しいと感じられる人と巡り会えた僕は幸せでした。

平尾誠二は、常に全力疾走でした。

ラグビーボールが楕円形なのは、世の中というものが予測不可能で「理不尽」なものだから。その現実を受け入れ、その中に面白みや希望を見出し、困難な状況を克服することの大切さ、素晴らしさを教えるためではないだろうか。(理不尽に勝つ「著:平尾誠二」)

2016年10月20日平尾誠二さんはこの世を去ります。ここだけでは書ききれないほど、闘病生活が鮮明に描かれています。出会い、癌宣告、闘病、それぞれにお互いの「本気」がほとばしっています。平尾誠二さんが亡くなられた後の感謝の集いで、山中教授が以下の弔辞を読みました。

弔辞全文

 最後に山中伸弥さんの弔辞全文を紹介して終わりたいと思います。

平尾さん、久しぶり。相変わらずかっこいいですね。僕は君と同じ年です。高校生のときからずっと君に憧れてきました。出会ってからは君のことが大好きになり、そしてものすごく尊敬しています。君は病気が分かってからさらにかっこよく立派でした。君の病気が分かったとき、ずいぶん進行していて、普通の人だったらぼうぜんとして、何もできない、そんな状態でした。でも平尾さん、君は最後の瞬間まで病気と闘いました。いろんな治療を試したね。あるとき、「平尾さん、この治療は世界で初。やったことない治療だから、ごめん、どんな副作用が有るか分からない」と言いました。すると君は心配するどころか顔がぱっと明るくなって「そうか先生、世界初なんか。けいちゃん(妻恵子さん)聞いたか、俺ら世界初のことやってるんや」。そんな風に言いました。あるとき、僕が病室を訪れた後、君はこう言ったらしいですね。「なんか先生元気なかったなあ。大丈夫かなあ」。君のことが心配だったんです。僕が君を励まし、勇気づけなければならないのに、逆にいつも僕が平尾さんに励まされていました。君が亡くなる前の日、病室でお会いしました。声がなかなか出せず、聞き取ることができませんでした。でも僕が「平尾さん、もうすぐおじいちゃんやな」といったら、はっきり分かる声で「まだまだですわ」と、はにかみながら、しかし、とってもうれしそうに言いました。それが君との最後の会話になりました。でも、最後の会話がそんな内容でうれしかったです。君が元気なとき一緒に飲みに行って、いっぱいいろんなことを教えてもらいました。一番心に残っているのは、「人を叱るときの4つの心得」。亡くなってから思い出しました。「プレーは叱っても人格は責めない」「あとで必ずフォローする」。ところが何ということでしょう。二つしか思い出せません。あとの二つが共通の友人に聞いても分からない。平尾さんが「なんや先生忘れたんか。本当に(ノーベル)賞もうたんか」と言っている声が聞こえてきます。でも2、3日前、ふと「もしかしたらメールにも書いてくれたんちゃうか」と思いました。たくさんもらった君からのメールを一つ一つ読み返しました。そしたら書いてくれていました。あとの二つは「他人と比較しない」「長時間叱らない」。君のようなリーダーと一緒にプレーでき、一緒に働けた仲間は本当に幸せです。僕も君と一緒に過ごせて本当に幸せでした。平尾さん、ありがとう、そして君のことを治すことができなくてごめんなさい。また、会えると信じています。そのときまでしばらく。また会おうな、平尾さん。

まとめ 

本気で闘った親友の絆。綺麗事でも何でもない、まさに「心と心」で繋がっていた2人。こんな関係を築ける人は、自分の周りに何人いるのだろうか。今という時間を大切に。自分が心を動かされたものに素直に。その先にある奇跡とも言える出会いが、この本を読めば分かると思います。

 

おわり

 

 

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