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天皇へ直談判! 田中正造から学ぶ、人動力!

どうも、YUITOです!

 

今日から少しずつ始めたいと思っている新カテゴリーは、「ヒューマンヒストリー」です。このカテゴリーは、人の生涯という歴史から学び、現代を生きる私たちに活用していくことで、少しでも人生を豊かにできれば良いなという思いで作りました。勉強不足の部分が多々あるかと思うので、 歴史の移り変わりの中で表現や捉え方に語弊が生じる部分もあるかと思いますが、その点を考慮して読んでもらえたら幸いです。

 

今日のヒューマンヒストリー。

第1回目の人物は「田中正造」です。

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田中正造という名前を聞いたら、足尾銅山鉱毒事件を連想する人が多いはずです。僕もその一人でした。 でも、足尾銅山鉱毒事件がよくわからなかったり、そもそも、田中正造がどのような人物かさえ分からなかったので、まとめて見たいと思います。

 

田中正造とはどんな人物なのか?

1841年11月3日に、現在の栃木県佐野市に長男として生まれました。

本人も「村中でやっと中等の財産に過ぎず」という程、質素な暮らしをしていたそうです。それでも、親は正造への教育の関心が高かったそうで、質素な暮らしにも拘らず、年間玄米約5俵分の資産を教育へ投じたと言われています。

  • 生家は質素(親は教育熱心)
  • 正義感が強い
  • ある意味強情で我が儘
  • 自己中心的

正義感が強いがために、矢面に立つことを恐れない性格ですね。

 

投獄生活の中で出会った1冊の本

30歳の時に、岩手県遠野市に役人として勤務を命ぜられます。その時に、ある事件に巻き込まれます。上司が殺された殺害事件の犯人として投獄されるのです。そこでは、厳しい体罰や脅迫をせまられ続けます。寒い国だったので、あまりの寒さに、投獄されていた人たちが凍傷で死んでしまったそうです。その人たちの衣服を着用して何とか寒さを乗り切ったそう。そこで、ある1冊の本に出会います。

西國立志編です。その本には、『1人の人間の命は、地球よりも重い』などが書かれていて感銘を受けたと言います。

そして、約3年もの投獄生活を終え、冤罪から免れました。

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足尾銅山鉱毒事件に出会う

衆議院議員として当選した50歳の頃、地元の栃木県に自然災害が起きます。洪水によって流れた足尾銅山鉱毒渡良瀬川へ流れてしまったのです。川の魚は死に、田畑の稲も枯れました。人民に選ばれた議員として被害にあった市民に耳を傾けました。

 

当時の足尾銅山は、日本一の銅山として、対外貿易の外貨を稼げる貴重な輸出品であり、富国強兵に欠かせない重要な物資でありました。明治27年に勃発した日清戦争でさらに銅の重要性が高くなりました。どんどん生産力が増し、生産過程で出る鉱毒を止めることができなかったそうです。政府に訴えようとした人民は、警官隊に激しく取り押さえられる川俣事件が起きたほどです。

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そのことを受け、正造は憤慨します。1900年2月17日 亡国演説です。

政府が人民を殺すとは、国が滅びたも同然であると訴えたのです。しかし、時の内閣総理大臣山県有朋は、「質問の意味がわからないから答弁しない」と答えたそう。政府に憤慨し、また、どうすることもできない自分に怒りを覚えたそうです。

 

 

石川半山との出逢いで加速した足尾銅山鉱毒事件の認知度 

そんな中、ジャーナリスト(毎日新聞)の石川半山 と出会います。石川半山にこう言われます。

あなたは、10年間平和手段を取ってきたのに、何も変わっていない。残された方法はただ一つ。佐倉惣五郎 たるべし。

佐倉惣五郎 - Wikipediaは、重税に苦しむ農民のために将軍へ直訴して処刑された人のことです。

正造は、明治天皇への直談判を決意します。

石川半山は、新聞で正造の活動を連載し、今で言うキャンペーン活動をしました。また、直訴状は、幸徳秋水が原文をしたためたそうです。

 

 

天皇への直談判当日

1901年12月10日 直訴当日。正造は、6時に起床して、お茶ずけを食べました。そして、今の千代田区霞ヶ関へ向かい、第16回帝国議会に参加していた明治天皇の帰途を待ち伏せていました。そして、その時がやって来ます。直訴状を持って天皇に渡すチャンスが訪れました!!

しかし、沿道を警備していた巡査に取り押さえられ、直訴は失敗に終わります。

失敗に終わった直談判でしたが、新聞が、「田中正造天皇へ直訴を企てたり」と取り上げます。世論を沸騰させたのです。

当時、盛岡中学校の学生であった石川啄木はこういったと言います。

夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや(石川啄木

 

正造の死と、その後の足尾銅山

1913年9月4日(享年73歳)に、この世を去りました。ガンになっていたそうです。

亡くなった時の鞄には、帝国憲法新約聖書、河川調査の原稿と日誌、採取した川の小石3個などが入っていました。

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葬儀の参列者は、数万人にも及びました。

 

それから1973年になって初めて足尾銅山の閉山が認められます。田中正造の死から約60年後のことです。

最後にこのような文章を残しています。

真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし(田中正造

 

まとめ

たくさん学べることがありました。

発信はたった一人の純粋な想いから。

想いが人の心を動かし、そして、また人へと伝播する。田中正造という人物の真面目で純粋な心を、村民が援護し、その姿に感銘を受けた、石川半山が協力し、幸徳秋水が直訴状を作成する。世論によって学生や知識人を巻き込み大きな波となる。

実直に自分の心と向き合い、行動して変化を起こしていく正造から学べるものは大きいですね。今、僕も仕事で困難に立ち向かわなければならない状況がありますが、いつか伝わると思って発信していきたいと思います。

(そういや、自分の想いはまだ発信していないな、、、想いだけではなく、行動していかないとな、、、と、反省。)

 

足尾銅山鉱毒事件は単なる環境保護運動ではなかった!

 

 

おわり

 

前回の記事はコチラから。

yuitotsubakino.hatenablog.com

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